意識疎通困難な終末期患者の意思決定:過去の意思、推測、そして倫理的・法的課題の現在地
はじめに
現代医療の進歩と高齢化社会の進展により、終末期において意識疎通が困難な状態となる患者さんが増加しています。遷延性意識障害、重度の認知症、あるいは急性期の重篤な脳損傷など、様々な原因によって、患者さん自身が医療に関する意思を明確に表明することができなくなる状況が生じています。このような状況下での終末期医療における意思決定は、患者さんの尊厳をいかに守り、最善のケアを提供するかという点で、倫理的、法的、そして実践的に極めて困難な課題を提起しています。
本稿では、意識疎通が困難な終末期患者さんの意思決定に関わる諸側面について論じます。具体的には、患者さんの過去の意思の尊重、推測される意思(推定意思)の解釈、そして最善の利益原則の適用といった倫理的・法的論点に焦点を当て、国内外の議論や臨床現場の課題を踏まえながら、この複雑な問題の現在地を考察します。
意識疎通困難な状態とその定義
ここで言う「意識疎通が困難な状態」とは、患者さん自身が医療従事者との間で明確なコミュニケーションを通じて、自身の状態や希望について理解し、それに基づいた意思を表明することが持続的にできない状態を指します。これには、完全な意識不明状態(例:遷延性意識障害)のみならず、意思能力が著しく低下している状態(例:重度認知症)、あるいは身体的な要因で意思を外部に伝えることができない状態(例:ALSなどによる閉じ込め症候群)などが含まれます。
このような状態の患者さんの終末期医療においては、人工呼吸器の装着・離脱、経管栄養や点滴による水分・栄養補給、昇圧剤の使用など、様々な延命治療に関する判断が求められることがあります。しかし、患者さん本人の意思を直接確認できないため、その決定プロセスは容易ではありません。
意思決定の倫理的・法的アプローチ
意識疎通困難な終末期患者さんの意思決定においては、主に以下の3つのアプローチが倫理的・法的な議論の中心となります。
過去の意思の尊重(自律の尊重)
患者さんが意思能力があった時期に、将来の医療に関する自身の希望を表明していた場合、その意思を尊重することが第一に考えられます。これには、書面による事前指示書(リビング・ウィル)や、家族・医療関係者との間で繰り返し話し合われた内容(アドバンス・ケア・プランニング:ACPの一部として記録されているものを含む)などが該当します。
自己決定権の原則に基づき、患者さんの過去の意思は尊重されるべきですが、いくつかの限界も存在します。例えば、事前指示書が存在しない、あるいは内容が曖昧である場合。また、患者さんの状態や医療環境が、事前指示書を作成した時点から大きく変化しており、その指示が現在の状況に適切に適用できない可能性もあります。さらに、過去の意思が患者さんの現在の苦痛や状態と矛盾するように見える場合など、解釈や適用を巡って倫理的な葛藤が生じることがあります。
推測される意思(推定意思)
患者さんが過去に明確な意思を表明していなかった場合、あるいは表明された意思が現在の状況に直接適用できない場合、患者さんの「推測される意思(Substituted Judgment)」を考慮することが求められることがあります。これは、患者さんのこれまでの生き方、価値観、性格、家族関係、医療に対する考え方など、利用可能な全ての情報に基づき、「もし患者さんに意思能力があったとしたら、この状況でどのような選択をしたであろうか」を推測する試みです。
推定意思を推測する際には、通常、患者さんの家族や親しい関係者の証言が重要な情報源となります。しかし、推測のプロセスは極めて主観的になりがちであり、推測する人物(家族や医療者)の価値観や解釈が影響を与える可能性があります。また、家族間での意見の相違が生じることも珍しくありません。推定意思の信頼性をいかに担保し、誰が、どのようなプロセスでこれを判断するのかは、倫理的・法的に大きな課題です。特に、代理意思決定者が患者さんの意思ではなく、自身の負担軽減や利益を優先する可能性(利益相反)も懸念されます。
最善の利益原則(Best Interest Standard)
患者さんの過去の意思が不明であり、かつ推測される意思を判断するための十分な情報がない場合、あるいは推測される意思が患者さんの現在の状態における「最善の利益」と明らかに矛盾すると考えられる場合、医療者は患者さんの「最善の利益(Best Interest)」に基づいて意思決定を行うことが求められます。
「最善の利益」とは、患者さんの病状、苦痛の程度、治療による負担と効果のバランス、予後、QOL(Quality of Life)などを総合的に評価し、患者さんにとって身体的・精神的に最も望ましいと考えられる状態を目指すという考え方です。しかし、「最善の利益」の定義自体が多義的であり、誰が、どのような基準でこれを評価するのかは複雑な問題です。医療者、家族、あるいは第三者である倫理委員会の間で評価が分かれることもあります。この原則の適用においては、客観性と公平性を保ちつつ、患者さんの潜在的な価値観や尊厳を最大限に尊重する努力が不可欠です。
日本における現状と課題
日本においては、終末期医療における意思決定に関する包括的な法制はありませんが、厚生労働省のガイドラインなどが指針として示されています。これらのガイドラインでは、患者さんの意思決定能力の確認、可能な限り患者さんの意思を尊重すること、意思能力がない場合は家族等との十分な話し合いを経て患者さんにとって最善の方針を決定することなどが示されています。
しかし、ガイドラインは法的拘束力を持たないため、特に意識疎通困難な患者さんの意思決定において、医療現場は依然として多くの課題に直面しています。
- 家族の負担と対立: 患者さんの意思が不明確な場合、家族が意思決定の重責を負うことになります。家族間の意見の相違や、医療者とのコミュニケーション不足から、対立や後悔が生じやすい状況です。
- 医療者の倫理的ジレンマ: 医療者は患者さんの生命を維持することを使命としますが、同時に無益な延命による患者さんの苦痛を避ける責任も負います。意思決定能力がない患者さんに対して、どこまで治療を継続すべきか、あるいは中止すべきかという判断は、医療者にとって大きな倫理的ジレンマとなります。法的リスクへの懸念も、判断をより複雑にしています。
- 推定意思の評価基準: 推定意思を判断するための客観的な基準や、そのプロセスに関する具体的な指針が不足しています。どのような情報をどの程度考慮すべきか、誰が最終的な判断を下すべきかなど、曖昧な点が少なくありません。
- 倫理委員会の役割: 医療倫理委員会は困難な事例において重要な役割を果たしますが、その設置状況、機能、活用度には施設間でばらつきがあります。より多くの医療現場で倫理的課題に対処できる体制を構築することが求められています。
今後の展望
意識疎通困難な終末期患者さんの意思決定に関する課題に対処するためには、多角的なアプローチが必要です。
- 意思決定支援の強化: 終末期を迎える前の段階からのACPの推進は依然として重要です。患者さん自身が意思能力のあるうちに、将来の状態や希望について家族や医療者と繰り返し話し合い、その内容を記録として残す文化を根付かせることが不可欠です。また、意思能力が低下しつつある患者さんに対する、残存能力を活用した意思決定支援の方法論の開発も重要です。
- 推定意思・最善の利益原則に関する議論の深化: 推定意思や最善の利益原則の適用について、社会全体での議論を深め、より明確なガイドラインや法的枠組みの必要性を検討する必要があります。海外の事例(例:意思決定代理に関する法律や裁判例)を参考にしつつ、日本の文化や医療提供体制に合った方策を模索することが求められます。
- 医療者・家族への教育と支援: 医療従事者に対して、倫理的な意思決定プロセス、患者さん・家族とのコミュニケーション方法、そして自身の倫理的ジレンマへの対処法に関する教育を強化することが重要です。また、意思決定に関わる家族への精神的なサポート体制の整備も欠かせません。
- 臨床倫理コンサルテーションの普及: 困難な事例に対して、客観的かつ専門的な立場から倫理的な助言を行う臨床倫理コンサルテーションの活用を促進し、その質を向上させるための取り組みが必要です。
結論
意識疎通困難な終末期患者さんの意思決定は、生命の尊厳と自己決定権という根源的な価値が交錯する極めて複雑な問題です。患者さんの過去の意思を尊重することを基本としつつも、それが不可能な場合には、推測される意思や最善の利益原則といった様々な倫理的・法的アプローチを慎重に適用する必要があります。
現在の日本においては、法的な枠組みが十分ではなく、医療現場や家族は大きな負担を抱えています。今後、社会全体の議論を通じて、より患者さんの尊厳が守られ、関係者全ての精神的負担が軽減されるような意思決定支援体制や法制度のあり方を模索していくことが、「終末期医療の現在地」における重要な課題と言えるでしょう。単に延命治療の是非を論じるだけでなく、患者さんにとって何が最善であるかを多角的に、そして倫理的に考察し続ける姿勢が求められています。