終末期医療における意思決定支援としての事前指示書:現状、課題、そして法制化の議論
はじめに
終末期医療における患者の意思決定を支援する仕組みとして、事前指示書(アドバンス・ディレクティブ)への関心が高まっています。これは、将来、疾病などにより自らの意思を表明できなくなった場合に備え、どのような医療やケアを望むか、あるいは望まないかについて、事前に書面などで意思表示しておくものです。日本では「リビング・ウィル」とも呼ばれ、その普及と有効性、そして法的な位置づけに関する議論が続けられています。本稿では、日本における事前指示書の現状、それが抱える倫理的・法的・社会的な課題、そして今後の法制化に向けた議論の動向について論じます。
事前指示書の意義と日本における現状の法的位置づけ
事前指示書は、患者の自己決定権を終末期においても最大限に尊重するための重要な手段と位置づけられます。医療技術が進歩し、生命維持が可能となった現代において、個々人がどのような「生」の終わり方を望むかという問いは、ますます重要になっています。事前指示書は、患者の価値観や人生観に基づいた意思を明確にすることで、医療者や家族が患者にとって最善の選択をする上での指針となります。
しかし、日本において事前指示書に明確な法的拘束力は認められていません。法的には、これはあくまで患者の意思を推定するための有力な資料と見なされることが多いです。これは、事前に表明された意思が、時間経過による価値観の変化や、予期せぬ病状の展開に対応しきれない可能性があること、そして代理人による意思決定の際に生じうる倫理的な問題などが考慮されるためと考えられます。多くの医療現場では、事前指示書を尊重し、患者の意思決定能力が失われた場合のケア方針決定プロセスにおいて重要な情報源として扱いますが、最終的な医療判断は、患者のそれまでの人生、家族の意向、医療チームの総合的な判断に基づいて行われるのが現状です。
日本における事前指示書の普及と課題
事前指示書の作成・普及率は、欧米諸国と比較して日本は低い状況にあります。その背景には、死について語ることを避ける文化的側面、どのような内容を記述すべきかという知識の不足、医療者側の啓発不足、そして前述した法的拘束力の不明確さなど、複数の要因が指摘されています。
また、作成された事前指示書が医療現場で適切に活用されるためには、いくつかの課題があります。例えば、様式の統一性がなく、内容の解釈が難しい場合があること、救急搬送時などに事前指示書が医療チームに伝達されない可能性があること、そして患者の意思決定能力が失われた後、家族や医療者の間でその内容を巡って意見の対立が生じることがあります。医療者は、患者の事前の意思を尊重しつつも、目の前の患者の最善の利益を考慮するという倫理的なジレンマに直面することもしばしばです。
これらの課題に対処するため、近年では、事前指示書をより広範なプロセスであるアドバンス・ケア・プランニング(ACP、人生会議)の一部として捉え、患者、家族、医療者が繰り返し話し合い、意思を共有していくことの重要性が強調されています。
海外における事前指示書(アドバンス・ディレクティブ)の状況
諸外国、特にアメリカやヨーロッパの一部では、事前指示書(リビング・ウィルやヘルスケア・プロキシなど)に対して、日本よりも明確な法的地位を与えている場合があります。
例えば、アメリカでは、各州法によって事前指示書の種類や法的効力が定められており、特定の条件下で法的拘束力を持つとされています。ドイツでは、患者の意思を尊重することが法的に義務付けられており、適切な形式で作成された事前指示書は原則として拘束力を持ちます。これらの国々では、事前指示書の普及促進に加え、医療者や市民向けの教育プログラムが整備されていることも特徴です。
海外の事例は、事前指示書に法的効力を持たせることの可能性と、それに伴う倫理的・法的な課題(例えば、意思決定能力の評価、代理人の権限範囲、意思の変更可能性など)を考える上での重要な示唆を与えてくれます。
事前指示書の法制化に向けた議論
日本においても、事前指示書に法的根拠を与え、その有効性を明確にするための法制化に向けた議論が、超党派の議員連盟などを中心に進められています。法制化の目的は、患者の自己決定権をより強力に保護し、終末期医療における意思決定のプロセスを円滑かつ明確にすることにあります。
法制化における主な論点としては、以下の点が挙げられます。
- 法的拘束力の範囲: 事前指示書にどの程度の法的拘束力を持たせるか。全ての状況で絶対的な拘束力を持つべきか、あるいは特定の条件下でのみ拘束力を持つべきか。
- 様式の統一と要件: どのような形式で作成されたものが有効な事前指示書として認められるか。公証人による認証や証人の必要性など。
- 代理人の権限: ヘルスケア代理人を指定する場合、その代理人の権限範囲をどこまで認めるか。
- 意思の変更と撤回: 事前指示書の内容を後から変更・撤回することをどのように保証するか。
- 医療現場での運用: 法制化された事前指示書を医療現場でどのように運用し、医療者の免責をどのように図るか。
- 対象疾患・病期の特定: どのような疾患や病期を終末期と定義し、事前指示書の対象とするか。
これらの論点は、患者の権利、医療現場の実情、家族の役割、そして社会全体の価値観が複雑に絡み合うため、慎重な検討が必要です。法制化は、事前指示書の普及を促進し、その利用をより確実にする一方で、予期せぬ事態への対応や、患者の真の意図が反映されない可能性といった倫理的な課題も内包しています。
今後の展望
終末期医療における意思決定支援としての事前指示書は、今後さらに重要性を増していくと考えられます。法制化に向けた議論が進む中で、単に法的効力を持たせるだけでなく、患者が事前に自身の人生観や価値観に基づき、医療者や家族と十分に話し合うプロセス(ACP)を重視し、その結果として事前指示書を作成するという流れが、より健全な終末期医療の実現に繋がるでしょう。
医療者側の啓発活動、市民への分かりやすい情報提供、そして多様な背景を持つ人々が事前指示書を作成しやすい環境整備も不可欠です。また、法的枠組みの検討と並行して、事前指示書に関する倫理的な研究や、海外の成功・失敗事例の分析を進めることも重要です。
事前指示書は、単なる書類ではなく、自己の尊厳を保ち、納得のいく形で人生を終えるための重要なツールです。その普及と適切な運用のための環境整備は、現代社会が取り組むべき重要な課題の一つと言えます。法制化が実現するか否かに関わらず、終末期における意思決定支援のあり方に関する議論は、今後も継続されていくでしょう。